至高の泥水

私の好きなゲームの作中でコーヒーを「下品な泥水」と揶揄するシーンがある。それを言ったのは1900年代のイギリス人であり、時代背景などが相まっての表現である。コーヒーを「泥水」と呼ぶのは元々狂信的な紅茶派の表現だが、今ではネタになっている。

 

 前提として、私はコーヒー派でも紅茶派でもない。どちらも好きだし、どちらもよく飲む。ただ、最近「泥水」、、ではなくコーヒーを自分で淹れ始めた。手間はかかるが、そこに時間をかけることで一杯のコーヒーをより美味しく感じることができる。

 

 旦部幸博は著書『珈琲の世界史』の中において、コーヒーの歴史を知ることでよりコーヒーを美味しく感じることができる、と述べている。「味」が自分の感覚器官で得た情報を脳で処理して判断しているのだとすれば、自分の知識が情報処理に影響を与えるのは自然なことかもしれない。コーヒーに限った話ではないが、エピソードや歴史などの周辺知識があることで、より美味しく感じられるのである。

 

 「自分で淹れた」という事実と淹れるに至って得た知識が、一杯のコーヒーをより美味しくしている。上記のように「泥水」と呼ぶ人がいたことも1つの歴史でありエピソードである。このコラムを読んだあなたが、次に飲むコーヒーの味も少しだけ変わっているかもしれない。私としてはその味が泥水でないことを願ってやまない。

(ライター よっしー)