社会に適応しなければ生き残れないのか?

「適者生存」という違和感

普段は変なコラムしか書いてないからたまには真面目なことも…

「変化の激しい時代に適応しなければいけない」

「社会に適応できなければ生き延びられない」

 

このような発言や考え方を見かけることがある。「環境に適応しなければ生き延びられない」とまでは言わずとも、適応するのが望ましい、という考え方が自然の摂理かのように語られる。個人の思想をとやかく言うつもりはないが、本当に自然の摂理と言えるのだろうか?

 

環境に適応したものが生き延びる。いわば「適者生存」というこの考え方は進化論に由来する。ただ、進化論で有名なダーウィンは「適者生存」という言葉は使っていない。ダーウィンが提唱したのはあくまで「自然選択」という考え方で、進化論を社会学に発展させようとしたハーバード・スペンサーが「適者生存」という言葉を用いたのである。

 

では元となった「自然選択」とは何か。「自然選択」について説明する前に、対になる「人為選択」について説明しよう。

ダーウィンは野生の生物より、人間に飼われている生物のほうが同じ種類でも多様な見た目をしていることに目を付けた。人間が飼う生き物には自然と違う原理が働いている、として「人為選択」という言葉を用いて説明した。

生物は世代間の遺伝子の受け渡しにおいて変異が起こる。そして親とは多少違う特徴を持った子が生まれ、その子が次の世代を残すまで生存できれば、その特徴は次の世代に引き継がれる。

 

金魚を例にとってみよう。金魚はフナの突然変異体であり、多様な見た目の種が存在している。人間は「きれいな金魚」を求めていたため、明るい色や特徴的な柄の金魚などいろいろな特徴を持った金魚を保護し、次の世代へ引き継がせた。それにより、現在のように多種多様な見た目の金魚が生まれるに至る。人間が人間にとって有用な特徴(金魚で言うならきれいな見た目)を持った種を選択し次の世代へ残す。これが人為選択である。

 

 

世代間の遺伝子継承において変異が起こることは自然界でも同じである。人為選択の時は人間が生き残らせる種を選択していた。これと同様に自然選択では自然が生き残らせる種を選択している(ように見える)のである。

人間は有用であれば多少の違いなど関係なく生き残らせてもらえた。しかし、自然界ではそうはいかない。生存に有利な特徴でなければ生き延びられない。明るい色の金魚は人間には重宝されたが、もし自然界だったら天敵に見つかるリスクを増やし、生き延びることはできないかもしれない。生き延びることができなければ次の世代に特徴を引き継ぐことはできず、結果と変異はその代で途絶えることになる。

端的に言えば人間の保護下よりも自然のほうが厳しく、あらゆる変異の中で環境に適応的な種が生き延びてきたのである。これがあたかも自然が選択した種が生き延びているかのように見えることから「自然選択」と呼ばれるようになったのである。

 

この考え方を人間社会にも応用したのが「適者生存」という考え方である。環境や社会に適応的な人間が生き延び、それ以外は生き延びることはできない、という考え方である。

 

ただ、この応用の仕方は無理がある。「自然選択」における適応的かどうかは遺伝子の変異によって決まる。つまり人間でいうなら生まれた時点で既に決まっている。私たちが努力して社会に適応的になるかどうかは進化論において語られていない。努力しても無意味だと言っているわけではないが、「進化論に基づいている」「自然の摂理だ」とするのは無理がある。

 

進化論を人間社会に応用するのは、決して悪いことではない。ただ、この研究自体19世紀のものであり、進化論はたくさんの批判を受け、アップデートされてきた。アップデートされた進化論を現代社会に応用する研究があってもよいのではないだろうか?

(ライターよっしー)