理想的な若者

なぜこうも社会は若者に色々求めるのだろうか。

柔軟な思考や社会を変えようとするエネルギー、高い学習意欲など社会には沢山の理想的な若者像が転がっている。

 

先日、ある人が「最近の新卒には”良い子”が多い」とボヤいていた。これは言葉の意味に反して褒めていない。真面目で目立たず、安定志向。大きな挑戦はせず、言われたことをやっている。「良い子」という表現にはそんなニュアンスが含まれている。

 

バブル期のような経済成長を知らず、震災やコロナなど大きな災害を経験した人間が、安定を大事にするのは、決して不思議な話ではない。一方で、「社会を変えよう!」と思わないくらい恵まれた環境だった、と考えることも出来る。そんな若者に「挑戦しろ!」といっても響かないのは当然である。

 

そもそも、なぜ若者に求めるのだろうか。組織や社会を変えたいのであれば自分でやればよい。それで足りないのであれば、同じような人を探せばよいだろう。何も若者である必要がない。コストカットなのか教育のしやすさなのか、求める側の都合だろう。

 

若者であるかどうかに関わらず、この「多様性」の時代に、他人の生き方に理想像を描くのはナンセンスである。そして、もし自分だけではできないことをやってほしいのなら、年齢や立場に関係なく「お願いします」と頭を下げるべきだろう。

こんな傲慢不遜でありきたりな不満を漏らす若者も、ある意味理想的であり、絶滅危惧種なのかもしれない。