皆さんは「教科書」の用途を聞かれたら何と答えるだろうか。
もちろん多くの人が「勉強する」用途で使われると答えるだろう。
今回の記事では教科書を「威嚇する」ための道具として定義しよう。
少しだが私の経験談を綴らせて頂きたい。
高校生時代、私のクラスは世界史無双者の巣窟であった。だがしかし、世界史が大の苦手な私は定期テストや模試の成績では常に、下から数えたほうが早いような順位を取り続けていた。世界史の先生に心配されることもあった。恥である。
そんな私をあざ笑うかのように、昼休みや放課後には高度な世界史一問一答クイズ大会が日々繰り広げられていた。当然私が入る余地はない。
そんなとき私は思ったのだ。
「せめて世界史ができる風のオーラは出したい。」愚直である。
そこで私が使った戦法は「教科書を果てしなくぼろぼろにする」というものであった。
安直に聞こえるかもしれないが、これにより私は世界史の知識をかなり身につけることができたのだ。
それはなぜか。
単純だ。教科書をぼろぼろにするために多く勉強するからである。1ページ1ページ手の垢がつくほど教科書を読み、背表紙がとれるほど教科書に日々触れ、その分知識をつける。
結果的には成績も上がり、クラスの人からは「教科書無双してる(ように見える)!」とまで言われた。勢いに乗った私はさらにこう思ったのだ。
「この勢いで受験会場で他の受験生を威嚇したい。」単純である。
それから私は今まで以上に教科書を使った。難関大に合格した人のボロボロの教科書を参考にしながら地図や人物の写真を貼り付け、最終的に私の教科書は最早何の教科のものなのかわからないところまでぼろぼろになった。
この教科書が果たして他の受験生を威嚇できたかは神のみぞ知るが、少なくとも私にとっては自信をもって試験に臨むためのお守り替わりの存在にはなった。
よく「教科書や参考書をボロボロになるまで使え!」と言われるが、教科書を「威嚇道具」になるまで使いこむことこそが正しい使い方なのではないだろうか。
(ライター:セトァ)