マイナスな感情がマイナスであると、誰が決めたのか。
何か物事に取り組まなければいけない時、一般的に「やる気がある方が良い」とされる。
「よおし、頑張るぞう」とポジティブに意気込んでやった方が物事は捗るだろう。
だが、それだけが良いと考え、誰に対しても「やる気をだせ!」、「ポジティブな気持ちでやれ!」と促すのはいかがなものか。私としては誠に遺憾である。
仕事や勉強など、人生、やりたくないことだってあるではないか。
それらに対してのやる気を人工的に出させようとするなど言語道断。
ましてやる気を促されている側にとっては阿鼻叫喚。
では貴様はやらないのか。やりたくないことはやらないのか。
ここまで読んだ読者の皆様はそう思ったことであろう。
私がこの記事で訴えたいこと、それは「マイナスの感情に突き動かされてやることもいいのだ」ということである。
ここで私の体験談を添える。これまで何度も書いてきたが、私は受験生の時、世界史が大の苦手だった。苦手というより、世界史に対してはどうも触手が動かないのである。そんな時、通っていた個別塾で、私はある世界史担当の先生と出会った。以下その先生を打首と呼ぶ。(私の出来が悪いと、「打首ですよ」と言うため。)
最初の頃、打首は私の世界史の苦手さに何度もため息をついた。時にイライラしていたように思える。その頃の私は、受験勉強ということでそこそこのやる気があった。しかし、他の教科に比べては熱意が低く、また苦手ということもあったため、比較的手薄になっていたのかもしれない。
ある日、打首のイライラは限界に達した。
「こんな一般常識も解けないような人が大学受験をするなど甘い。(以下省略)」
のようなことを軽く怒鳴られた。
か弱い心の私にとっては、トラウマ級の出来事である。
それ以来私は、「受験に合格したい」という熱意より、「もうあんな怖い目を見るのはごめんだ」という恐怖から一心不乱に世界史を勉強した。
そして結果として私は世界史をなんとか克服。大学に合格することができたのだ。
その節はありがとう打首。
つまり時として、マイナスはプラスな結果を生み出すこともあるのである。マイナスな結果になりたくないというマイナスな思いが、乗算でプラスになったのだ。
もうすぐ待ってもいない五月病の季節が到来する。やる気が出ないみなさん及び私。今一度、マイナスな気持ちを原動力にしてみてはどうか。
(ライター:セトァ)